「あの時は本当に酷いと思ったわ」
珍しく思い出話を振ってくるものだから、ついつい恨み言になってしまった。
「ちゃんと助けてあげたし、君も『レイン』じゃないほうが気楽だったでしょー?」
心外だとばかりに反論してくるが騙したことに変わりはない。
どうせ口では敵わないからむっつりと黙って手元の参考書を読むのを再開していたら、後ろから抱きすくめられて、伸びてきた手に本を閉じられてしまった。
「ちょっと、明日までに予習しておかないといけないんだけど」
「じゃあボクが教えますよー。どこでしたっけ、今循環器でしたっけー」
確かにレインに教わるのはとても解りやすいし、効率的だけれどこんな体勢で集中できるものではない。撫子はひとつ溜息を吐いてしばらく彼につきあうことにした。こうやって甘えてくる時は彼が、どこか人寂しい時なのだ。兄弟や親しい友人を亡くしているせいか、レインには酷く寂しがりなところがあった。いや――もしかしたらそれは撫子のせいなのかもしれない。そう、思う事がたまにある。
「ねえ、レイン。何故あの時レインじゃないなんて嘘を吐いたの?」
そういえば理由をきちんと訊いたことがなかったなと思って訪ねてみる。肩に回された手がまるで猫を撫でるみたいに撫子の顎の下を撫でて、思わず、んん、と声が出てしまう。
「だって面白そうだなと思って」
「それだけ?呆れた」
撫子は本当にレイン・リンドバーグその人に会いたくてアメリカまで行ったのに、折角会えたその人に人の悪い悪戯をされるなんて。結局の所こういう関係になっているけれど、あの時は人の真剣な気持ちを弄ぶなんてと心底怒ったものだ。
「年齢まで偽って」
「それは撫子くんが勝手に勘違いしたんでしょー」
せいぜい十代後半くらいにしか見えないからすっかり年下かと思い込んでいたら、なんと撫子より三つも年上だったなんて。
「撫子くんはどうだったんですー?」
いつまでも顎の下や頬を撫でるものだから少し疎ましくくなって手で軽く押さえ込んだら、待っていたようにレインの手が撫子の手を捕まえた。引き寄せて指先に唇を寄せる。
「どう、って…何が」
触れるだけの口づけが指を辿るように繰り返されると撫子は落ち着かない気持ちになってくる。レインの唇は微かに温かくて、そして掴んでいる手は冷たい。
「レイン・リンドバーグじゃない、ボクのこと」
唇は優しく指を辿っているのに、言葉は凜と、冷たく澄んでいるような気がした。
「…どういうこと?」
背中に感じる体温が酷く熱くて、彼の言っている事が理解できない。レインはレインなのに、レインじゃないレインがいるんだろうか。
「好きになって、くれました?」
耳許で囁かれて思わず彼の顔を振り返る。落とされたキスはあれほどに甘かったのに、間近にあったその瞳がまるで笑っていないことに驚いた。
「…レイン」
何か続けようとした筈だった。けれど、それを続ける前に肩越しに唇を塞がれる。
――レインは、ずるい。
自分から尋ねた癖に、答えは言わせないなんて。
けれども、急くでもないのに息継ぎくらいしか許して貰えないキスに、結局撫子はすっかり言いたいことを忘れてしまった。
快楽に身を委ね、目を閉じればいつでも瞼の裏にはあの世界が映る。
見たことがない筈の世界、遠い、オールトの雲に覆われたその世界を。
